2023-12-13

もし表面が曇っているようであれば

もし表面が曇っているようであれば、布で磨いて曇りをとる。なぜならそういった気持ちは作品に自然に滲み出てくるからだ。

騎士団長殺し/ 1章/ 村上春樹


肖像作品の依頼を受けると、私はまず、依頼主と面談をすることにしていた。面談といっても、小一時間ほど時間をとってもらい、電話で話をするだけのものだ。もしも相手が、会いたくて震えるカナのように緊張していたら、優しい口調で『電話苦手あるある』の話題を持ちかける。氷が溶けたことを確認したら、はじめて質問をする。いつどこで生まれ、どんな街で暮らし、どのような仕事をしたのか、そういう話だ。

そうしたやりとりの中に、私はこれから描くモデルの『癖』を探していた。ロック・クライミングで足場を求めるように、肖像の輪郭になり得る特徴を、限られた時間の中でひとつでも多く持ち帰ろうとした。それは必ずしも美点だけではなく、寧ろ欠点にこそ可能性はあった。「くしゃみが独特だ」とか「話を少しだけ盛る」とか「名前が純なのに浮気症がある」など、本人さえ自覚していないものが隠し味になり得るからだ。

期待を超える作品を創るためには、『書く』ことよりも、寧ろ『訊く』ことが鍵を握ると私は考えていた。撮影のために役者が何ヶ月もかけて役作りをするように、私も客体を理解することに惜しみなく労力をかけた。名前の由来や、出身地の町並み、生年月日から四柱推命まで調べた。クライアントが思い入れを持つ本や映画があれば、可能な限り目を通した。そんな調子なので、執筆は一日で終わっても、客体を知るためには何日もかかった。しかしこれが致命的な差を生むことはわかっていた。

癖が掴みにくい人物の描写には苦労を強いられることもあった。実直な郵便配達員や、温和な図書館司書など、いわゆる『良い人』ほど何を強調すべきなのか頭を悩ませるからだ。しかしそんな時には、創作に腕を存分に振るうことができる。「サンタクロースが見学に訪れるほど模範的な配達」とか「返却期限を過ぎて何日目で腹を立てるのか試したくなる温和さ」など、素材の味を損なわない程度にスパイスを振った。

そのような作業の中でひとつ大事なのは、私がクライアントに対して少しなりとも親愛の情を持つということだった。もちろん中には、共感できるものを見つけられそうにない人物もいる。これからずっと個人的につきあえと言われたら、尻込みしたくなる相手だっている。

しかし限定された場所で一時的な関わりを持つだけの『訪問客』としてなら、愛すべき資質をひとつかふたつ見いだすのは、さして困難なことではない。ずっと奥の方までのぞき込めば、どんな人間の中にも必ず何かしらきらりと光るものはある。それをうまく見つけて、もし表面が曇っているようであれば、布で磨いて曇りをとる。なぜならそういった気持ちは作品に自然に滲み出てくるからだ。

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