息もこときれ、手足もつめたい
ドンナ・アンナ「ああ、あの人殺しが、私のお父様を殺したのよ。この血…この傷…顔は既に死の色を浮かべ、息もこときれ、手足も冷たい。お父様、優しいお父様!気が遠くなり、このまま死んでしまいそう。」
騎士団長殺し/ 5章/ 村上春樹
何を隠そう、私は村上春樹の愛読家で、ここ十五年ほど、彼の作品に触れない日は一日もないほど読み続けている。楽園の描写に林檎が欠かせないように、私にとって彼の言葉は、パンやワインと同じ生活必需品に分類されるものなのだ。もし取り上げられようものなら、殻からつまみ出され、塩を振りかけられた不憫なカタツムリのように、息もこと切れ、手足も冷たくなるだろう。
投票のない政党支持が存在しないように、私も、彼の出版物(単行本・文庫本・電子書籍)は、それぞれすべて新品で手にしているし、うるう年が訪れるたびに、単行本をそっくりまるまる買い直している。合理的に考えれば…というか考えるまでもなく、同じ本を何度も購入する道理はないのだが、熱心なカトリックが人生の岐路で聖書を買い直すように、私も初心を取り戻したくなるのだ。
村上春樹といえば、「肺炎をこじらせた犬のため息のような音」とか、「玄関マットをみるときのような目つき」といった、比喩表現の豊かさに定評があるが、私は執筆に向かう際に、彼の作品を辞書がわりに使っているので、比喩の具体例を挙げていただければ、どの作品のどの章あたりに描かれているかを答えられる。疑われたユダが、信仰の深さを示すために聖書の一節を誦じる(そらんじる)みたいに。
そんな熱心な教徒の私だが、とても不思議なことに、ある一冊の本だけが、発売されてから六年間もの期間、どうしても読むことができなかった。もちろん、単行本も文庫本もKindleも予約して手に入れた。それでも、私がその本を読もうとするたびに、まるで人魚の歌声を聞いた船乗りのように、目下の目的が別の場所に移ってしまうのだ。
しかし、今年の夏にふと「今なら読めるかもしれない」という考えが浮かんだ。そこには何の前触れもなく、何のきっかけもなかったが、とにかく「やってみる価値はある」という啓示的な閃きがあった。そこで私は(人魚の歌声が届かないであろう)山奥の温泉宿を選び、三日かけてその本を読むことにした。
内容に私は驚愕した。DNA鑑定の結果、実の親ではなかったと知らされた娘のように。その作品に描かれていたことは、すべて私に向けたものだった。『私のような境遇の人に向けて』という話ではなく、もっと文字通りの意味で、他の誰でもない唯ひとりの私を指差し、「これはお前に向けて書いているのだぞ」と語っていた。私が必要とするすべてが描かれていた。次に何をするべきで、何をするべきではないのか、至極明快に。そうして導かれたのが、肖像作品という私固有の執筆手法だった。一冊の本が人生を変えてしまうことがある。マルコム・エックスの言う通りだ。
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