今のところは顔のない依頼人です
「それで描く相手はどんな人なんですか?」と私は尋ねた。「実を言うと、私も知りません」「男か女か、それもわからない?」「わかりません。性別も年齢も名前も、何も聞いていません。今のところは純粋に顔のない依頼人です。」
騎士団長殺し/ 6章/ 村上春樹
そのとき、店のソムリエが確信に満ちた足音を響かせて我々のテーブルにやってきた。それは、実直な鍛治職人が朝早くから鳴らす均一な音によく似ていた。彼は一人息子の写真でも見せるかのように、にっこりと微笑みながらワインのラベルを向け、蝋燭の灯りで澱(おり)を避けながらデカンタに移した。手つきから察するに、滅多に出ない貴重なワインなのだろう。
食卓に招いてくれた人物は、どうやら社会的に大変成功している様子だった。訊けば、三つの邸宅を持ち、五台の高級車を所有し、煌びやかな時計をいくつも集めていた。私は念の為、「ヘリコプターはないんですか」と聞いてみたが、もちろん二機持っていた。
同席した三名の紳士淑女も、みな品の良い身なりに、輝かしい社会的立場を有していたので、ヘリコプターはおろか、住む家すらない私は明らかに場違いだった。ソムリエから見れば、『四天王とその見習い』という題の静止画のようだったかもしれない。実際に、所有物のことで話が盛り上がっているとき、私には共感できる余地がなく、気になるあの子との二回目のデートに繋げる手順のことを考えていた。
しかし、話題が『どうすれば時間を生み出せるのか』に変わると、彼らの関心と話題の中心は一挙に私に移った。なぜなら、私の主要資産は『予定のない時間』であり、彼ら四人のそれを集めても到底及ばないほど、圧倒的な資産を保有していたからだ。よろしい、ワインのお礼に教えて差し上げよう。
彼らの考えは、収入は大きいほど、家は広いほど、所有物は多いほど自由だと考えていた。しかし私は全てにおいて真逆だった。収入を減らすほど雑務は消え、家を狭めるほど選りすぐられ、荷物を捨てるほど身軽になれると。私の助言は、おおむねカモメに空の飛び方を教えるようなものだったので、例を変えて説明した。
「私は割に古風な考えの日本人だから、箱庭や茶室、俳句や和歌のように、決められた枠の中にある凝縮された美に心を動かされます。もちろん、壮大なピラミッドや荘厳たるタージ・マハル、絢爛なタイタニックも美しいけれども、私のような取るに足らない小物には、樫の木のほらで胡桃を枕に昼寝ができれば十分なのです。」
彼らはそれを聞いてしばし真剣に考え込んだ。そういう考え方が存在すること自体がどうやら初耳であるようだった。彼らが考え込んでいる隙にワインを独り占めした私は、気持ちが良くなって追い打ちをかけた。
物を集めるほど物にとらわれる。ジュゼッペ・トルナトーレの『顔のない依頼人』に登場する、絵画の蒐集に囚われた哀れな美術鑑定士のように。
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