溝川摩衣はナンバープレートを求めて旅に出た
溝川摩衣は、理想のナンバー・プレートを求めて、北へ南へ旅をした。
彼女が1978年のフォルクス・ワーゲンを現金一括で購入するまでに要した時間は、その車と初めて対面してから5分もかからなかった。それは前世からの因縁かと思えるほど宿命的なひと目惚れだった。堅実な家庭で育った摩衣は、(吝嗇家とまではいかないにせよ)根からの倹約家であり、ドイツの高級車はおろか、電動自転車でさえ欲しいと思ったことはなかった。運転免許こそ持っているが、特別車に興味があるわけでもなく、左ハンドルのマニュアル車なんて何の燃料を入れればよいのか想像もできなかった。それでもその日、パン屋からの帰り道に国道沿いの古びたガレージでその車を見かけると、まるでライ麦のツナパンサンドを買うかのように、700万円の契約書に判を押していた。
不思議なことに、それだけ大きな衝動買いをしておきながら、帰宅してからも摩衣の心に不安や焦りといった感情は湧いてこなかった。それどころか、生まれて初めて心から欲しいと思えたものを譲っていただけたことに、身分違いの恋が成就したような喜びを感じていた。納車まで半年以上かかる見通しだったが、あの車に自分が乗っている姿を想像するだけで、仕事も育児も何もかも手放して走り出したくなった。だから販売業者から提示された車両のカスタマイズは、予算を無視して容赦無く追加した。ソファやカーテンを新調し、イタリアの職人に電灯を依頼し、日本ではおおよそ必要のないフォグ・ランプ(霧灯)まで実装した。
彼女がとりわけ気を遣ったのは、ナンバー・プレートだった。車体の前後、もっとも目立つ場所に取り付けるものだから、表示される地名はそれなりのものであるべきだ。間違っても、なにわナンバーの3150(サイコー)や、さいたまナンバーの3100(サイタマ)なんてものは付けられやしない。かといって神戸や品川で安全牌(あんぱい)をとっては、あの車を創造した偉大な先人たちに申し訳が立たない。そこで摩衣は、相応しい車両登録の地を探すために、飛騨に飛鳥、出雲に奄美と、実際に足を運んで直感の閃きを待った。まるで失われた記憶を取り戻す旅に出るみたいに。そうして最終的に選んだのが、伊勢志摩ナンバーだった。《伊勢志摩の1978》どことなくウイスキーの余韻を感じる素晴らしいナンバー・プレートだ。こうして彼女は、人口減少に頭を悩ませる伊勢市の新規転入者となった。つくづく思う、世の中には実にいろんな才能があるものだと。
あの可愛い車には、粋なご当地プレートがついて当然だ、と思った次第ですが、
文章で表現していただいて初めて、
どうやら自分はクレイジーなことをしたらしい、
と客観的に感じました。これも才能と評して頂けたことが救いです。
(そう言われてみれば、この話をした全員が苦笑いして聞いている気がします)
(しかし今後新規で買う車があれば、何台でも同じことをする気がします)