2023-10-23

伊藤剛治は熊に最も恐れられた料理人だった

伊藤剛治は、熊に最も恐れられた料理人だった。

その名を聞けば熊たちは恐怖で震え上がり、気の弱いものの中には、失神失禁の末に泡を吹いて倒れることもあったため、一部の地域では、鈴を鳴らす代わりに伊藤の名を唱えながら登山することが推奨されていた。

伊藤は、触れたものを黄金に変えるミダス王のように、さまざまな山の食材を用いて食通たちを唸らせてきたが、特に(臭くて硬いと敬遠される)熊肉を使った『月鍋』は、それこそ食べた者が失神して泡を吹いた後、記憶を無くしてしまうほど美味しいと噂されていた。

イギリスのある高名な学者は、初来日で伊藤の月鍋に気を失い(失禁さえ免れたものの)、翌日の病院でこのように語っている。

《前略》最後にみた光景は『ホンモロコの塩焼き』でした。あれは素晴らしかった。月鍋はメイン・ディッシュですから、私たちは値の張るピノ・ノワールを頼み、さぁいよいよ始まるぞと期待に胸を膨らませました。

しかしその後のことはよく覚えていません。一口食べた瞬間に電撃が走り、私は気を失ってしまったのです。

はじめ私は『落雷に撃たれたのだろう』と思いました。生涯で7度雷に撃たれたロイ・サリヴァンの話とよく似ていたからです。しかし私が事態の全容を理解したのは翌日でした。

私から言えることは、月鍋はとても危険な食べ物だということです。店側としても客が気を失わないような配慮が求められるでしょう。《ここまで》

伊藤の料亭『比良山荘』は、常連客によって向こう半年の予約が埋められており、運良く門が開かれても、京都駅からタクシーで1時間かけて向かわなければならない。学者の言う通り、せめて客が気絶しないような配慮(あるいは手加減)も必要なのかもしれない。

あるとき私は(幸か不幸か)比良山荘への招待状を受け取ったのだが、最初から気を失うわけにもいかないので「まずは(先代から続く)鮎のコースからお願いしたい」と伝えた。

我々が到着するやいなや、山荘の厳かさや女将の奥ゆかしさ、ワインセラーの品揃え(4000本あるらしい)に、ただごとではない何かを感じていたが、一品目に運ばれた『岩茸のお吸い物』を口にした瞬間、言葉を失い「あの噂は本当なんだ」と確信した。

そうはいっても徒(いたずら)に怯える必要もあるまい。美味しいとはいえ人智を超えているほどではない。何より今回の主役は熊ではなく鮎なのだから、いくらなんでも気を失うことはないだろう。そう心を静め、銀杏に吉野煮、造りと手際よく駒を進めた。

しかし、私が最後に見た光景は土瓶蒸しだった。鮎の塩焼きをひと噛みした瞬間に気を失い、事の成り行きを知らされたのは、翌日、病院のベッドの上でだった。

関連記事

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *