溝川摩衣は数千万円の資産を浪費した
溝川摩衣は、わずか一年の間に数千万円の資産を浪費した。
40を迎えた年、彼女は絶望していた。誰もが振り向く美貌に、将来を憂う心配のない資産、愛くるしい息子。紛れもなく周りからの評価は『女優のような憧れの大人』だったが、当の本人は『等比数列のような退屈な人生』だと恥じていた。
彼女は幼い頃、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の熱狂的なファンだった。常識やルールが通用しない世界で、果敢に旅をするアリスに心を奪われた。たとえ狂気のコックに皿を投げつけられても、トランプの女王に命を狙われても、「好奇心のまま冒険すること」が、彼女の憧れであり矜持となった。
しかし良家に生まれ、親族一同から目を掛けられた彼女の人生は、深い穴に落ちることはおろか、挫折や反抗期を迎えることもなく、(飛行機の自動操縦のように)ただ順調に進むのを窓から眺めるだけのものだった。冒したリスクを並べても「終業式ぎりぎりまで荷物を持ち帰らなかった」とか、「カマキリの卵を家に持ち帰った」とか、その程度のものだった。
結婚と出産を終えたときには、高明な占い師から「よほどの何かが起こらない限り、あなたが今世で苦労することはありません」と断言されてしまった。彼女は呪われた運命を変えるために《よほどの何か》を起こすことにした。その手始めに『財産を年内に使い切る作戦』を思いついたというわけだ。
摩衣は、もともと物欲がある性格では無かったし、使うより貯める方が得意でもあったため、有効な戦略を出すために、ありったけの知恵を搾り出さなければならなかった。
三日三晩考え抜いた末に、都内の高級ホテルでアフタヌーン・ティーを注文し、それを一日に三軒回る『アフティー巡り』を思いついた。効率よく消費できる上策だと自信があったが、二日で胃袋が限界を迎えた。資産状況を知る友人からは「アフティーで使い切れるか愚か者」と、俳句のようなお叱りを受けた。
次に彼女は、浪費癖に定評のある人物に弟子入りさせてもらうことにしたのだが、これが見事に功を奏した。優れたトレーナーが、筋肉の状態を見ながら、適切に重りの負荷を上げていくように、その浪費家は摩衣の心の閾値(いきち)を見抜き、適切な手段で浪費を教えた。
ひと月が経ち、彼女は別人に生まれ変わった。連絡をもらった私は、朝一番のセントレジス・ホテルに案内され、タイタニック・オムレツ(15,000円)とテタンジェ(シャンパン)で、いささか過剰なおもてなしを受けた。
彼女はその月に、街中で見かけた1970年代のクラッシック・カーを、まるでライ麦のツナパンサンドを手に取るように衝動買いしていたが、あの調子で資産を使い切った先に、どのような《よほどの何か》を起こすのか、私は恐ろしくて(楽しみで)たまらない。
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