遠くから見ればおおかたのものごとは美しく見える
しかし逆に向こう側から谷間を隔ててこちらを見れば、この私だって何も思い煩うことなく、一人で悠々と日々を送っているように見えるのかもしれない。遠くから見ればおおかたのものごとは美しく見える。
騎士団長殺し/ 4章/ 村上春樹
こちらから働きかけるのか、それとも、向こうからやって来るのか。その文脈において『読書』は、テレビや映画、音楽とは根本的に異なるところがある。ツアー・ガイドに従って、快適な休暇を過ごしたい貴方には後者を。地図とコンパスをもって探検をしたい物好きには前者を。そういう違いだ。私が文章を好む理由はまさにそこなのだ。
昨年の冬、車を住まいに変え、移動のための移動を続けた私が最初に羽を休めたのは、『龍神村』という願いを三つまで叶えてくれそうな名前の村だった。厄年の真っ只中で、考えるべき『数々の考えたくないこと』に頭を抱えた私は、雑音のない場所に車を停め、そこで何かが好転するまで暮らすことにした。
もともと独りの時間は苦痛ではない。朝には珈琲を飲みながら、諸々の問題を一挙に解決してくれる心優しい龍が現れないかと、下心を剥き出しに山々を眺めた。昼にはワインを開け、アイデアだかモチーフだか、そんなものが空から降ってくるのを待ち続けた。かつて、オペラの制作に行き詰まったクロード・ドビュッシーは、「私は日々、無(リアン)を制作し続けた」という格言を残しているが、その頃の私もドビュッシーに引けを取らぬほど真摯にリアンの制作に打ち込んでいた。
やはり、通信機器を湖に投げ捨てたのは正解だった。あの小さな端末には、私とはおおよそ関係のない人の誇張された非日常が、まるで新幹線の窓から見える広告看板のように高速で流れ続けてくる。しかしどうだろうか。切り取り方によっては今の私でさえ、何も思い煩うことなく、一人で悠々と日々を送っているように見えるのかもしれない。遠くから見ればおおかたのものごとは美しく見えるのだから。
半月も過ぎると、私の取るに足らない悩みは、舌に乗せたA5ランクの霜降り和牛のように消滅し、代わりに何かを描きたいという気持ちが高まってきた。私はこれまで、頭に浮かんだアイデアを、主に映像を用いて表現してきた(それなりに予算もかけた)。しかし、無垢な自然に身を置くうちに、だんだんとそれが壮大な茶番劇であるように感じてきた。
考えてみれば、私のような一介の発信者の思想なんかに、高解像度の映像や、技巧的なグラフィックが用いられるというのは、世界同時通訳付きの国際放送で、セミの脱皮シーンを流すようなものではないだろうか。物事はもっと単純であるべきではないだろうか。
そのようにして、私は表現の道具として、文字だけを用いることにした。その決定は、撮影から執筆に『転向した』というよりは、むしろ『昇華した』のだという確かな手応えを伴っていた。
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