村上厚介は熊本に暮らすガンディだった
村上厚介は、熊本の山奥で暮らす、マハトマ・ガンディだった。
ターバンでまとめられた長い髪や、菜食主義の華奢な身体。糸を紡ぎ、チャルカ(糸車)を廻す姿は、教科書のなかのガンディそのものだった。住所は熊本だったが、私は念の為、インドの様式に沿って合掌で挨拶をした。
彼の生活は驚くべきものだった。米や野菜、薪や布、観賞用の風景に至るまで、生活に必要な全てを、自らで調達した森の資源から創っていたため、誰かからお金を受け取るたびに、いったい何に使えばいいのか頭を悩ませていた。私は自信を持って「この秋買うべき10のもの」を紹介したが、彼は糸を紡ぐことに夢中でそれどころではなかった。
渡り鳥が抵当用の資産を持たないように、厚介も所有することを好まなかった。そんなことよりも、田畑や森に入って、鹿や猪、蜜蜂や菌たちが住みよき環境を整えることの方が遥かに楽しかった。無計画に植えられた杉を手入れし、みなが太陽の恩恵を受けられるようにした。生き物たちの側も彼と友達になりたかったので、まるでお歳暮を贈るように、季節ごとに作物を与えてくれた。
彼は人里離れた僻地に住んでいたが、作物を口にした客からの評判が評判を呼び、師事を仰ぎたい者が全国から訪れるようになった。いつしか人は、彼がこれからの農業を救う救世主になると信じ『ジャー(Jah)』と敬うようになった。まだ30代で、見た目は歳よりもさらに若かったので、お弟子のひとりと勘違いされることもたびたびあった。
農園を訪れる者たちは、自然に育てられた作物よりもむしろ、ジャーの思想や生き様を学ばんと期待していた。ジャーは世界で起きている様々な問題(犠牲を強いる農業、偽りだらけの原発、無反省な政治など)に対して、独自の意見を持ち合わせており、「北風より太陽」のやり方で訴えかけていたからだ。
たとえば、過激なヴィーガンが肉屋を非難するなら、ジャーは玄米と味噌の美味しさを伝えた。活動家が原発を糾弾するなら、薪と釜戸の温もりを教えた。反戦や核廃絶を叫ぶ者たちがいるなら、愛の尊さを音で表現した。『目には目を』が世界を盲目にしている、と考えるジャーは、財布を盗まれたときでさえ「貧しいものにお恵みを与えられた」と静かな心で感謝した。
ジャーと話をした日の帰り道、信じられないことに、私は生まれて初めてハトの糞を頭に落とされた。一瞬、今夜は焼き鳥にしようかという邪念が沸き起こったが、ジャーの言葉を思い出し、すぐに心を鎮めた。これは鳩なりの愛情表現なのかもしれない。感謝することこそあっても非難などできようものか。
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