渡り鳥だと名乗る根拠
肖像作家ナナシへの質問
ナナシさんはご自身を渡り鳥だと名乗っておられますが、いったいその根拠はどこにあるのでしょうか。「住所がない」とか「定職に就いていない」というだけでは、渡り鳥ではなく、浮浪者というものです。同列に論じるのはいささか傲慢なことですし、鳥たちに失礼だと思います。
山梨県50代男性、日本の野鳥を見守る会さん
私は物心がついたときから、周りから「渡り鳥のようですね」と言われてきました。悪い気はしなかったので深く考えずに受け入れ、いつしか自称するようにもなりました。ご指摘のとおり、調子に乗っていたのかもしれません。どうぞ本日から、浮浪者でも夢遊病患者でも、ストリート・チルドレンでもテロリストでも、お好きなようにお呼びください。またこの場を借りて、不快に思われた野鳥たちに深くお詫びを申し上げます。
さて、鳥の目で俯瞰してみると、私が「渡り鳥のようだ」といわれるに至ったのには、主にみっつの原因があるように思います。ひとつは移動距離です。昨年は控えめでしたが、それでも陸路だけで年間4万1282キロ、一日あたり113キロを移動しました。長距離を飛ぶことで知られるカモメ科のアジサシと比べれば半分程度ですが、ハチドリやツバメの飛行距離よりは長くなります。もちろん、空を飛ぶのと地を這うのではワケが違いますので、やはり渡り鳥というよりは、《逃げ回るシマウマ》や《落ち着きのないヌー》といった方が正しかったのかもしれません。
ふたつめは、方位や標高を言い当てることができることです。私は磁石や星座をみなくとも、影から方位を読めます。また気温や風向き、植生の変化から、今いる場所の標高を予測することもできます。標高100メートルと105メートルの違いまではわかりませんが、1100メートルと1200メートルの差なら外すことはありません。もちろん、網膜で磁気を感じ取れるコマドリと比べれば、私のささやかな特技など、園遊会で皇太子が語るお言葉に対して、側近が向ける微笑みくらいの役にしか立ちません。そう考えるとやはり渡り鳥ではなく、《二番煎じのイカロス》や《神経質なダチョウ》と名乗った方が良かったのでしょう。
最後の理由は、予定がないことでしょうか。渡り鳥が抵当用の資産をもたないように、私も予定というものを持ちません。誰かから誘いを受けたときには、曜日や場所にかかわらず飛んでいけるようにしたいからです。実際にある界隈では、「足軽のようにフットワークが軽い」とご好評いただいております。夏には北へ向かい、冬には南に向かいます。そうした生き方は一部の方に渡り鳥を連想させるのかもしれません。もちろん、猛禽類から命を狙われるなか、子孫のために飛びまわる波瀾万丈なツバメの生涯と比べてしまうと、私の人生なんて、樫の木のてっぺんのほらで、胡桃を枕にうとうとと昼寝をするリスみたいなものですが。
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