高井翔は携帯を海に投げ捨てた
高井翔は、夕日に見惚れて携帯電話を海に投げ捨てた。
その日、運転中に高井が見た夕焼けは、最新式のスマートフォンを海に投げ捨てるという行為に、十分な正当性を与えるほどに美しかった。海岸線に並ぶ風車と燃える夕日。そのような記念碑的な風景を前にすると、手元に瑣末なニュースを映し出す電子端末があることが、根本的に間違っているように感じたのだ。
きっかけは小さな違和感だったが、一度気になってしまうと、(歯の間に詰まったほうれん草を無視することができないように)次第にうずきは膨らみ、気づいた時には斜め45度の角度で、力いっぱい太平洋に向かって投げ捨てていた。色々と困ったことになるかもしれないが、まぁ仕方ない。連絡がつかなくなった人たちには、月に行ったとでも思ってもらうしかない。そうして高井は、20年間生活に溶け込んだ携帯電話という文化に別れを告げた。
その日の夜、彼は世界中に張り巡らされたネットワークの網から解き放たれた歓びを感じていた。祝杯をあげるために値の張るピノ・ノワールを用意し、例の海岸で車中泊をすることにした。独りで乾杯するわけにもいかないので、犠牲になったiPhone15 Pro Maxに哀悼の意を捧げた。「禁断の果実よ、海の底で安らかに眠れ。」
PM9:00。いつもなら動画や映画を観ているところだが、今夜は蝋燭の灯りで読書をするくらいしかやることがなかったので、胃腸の弱いシマウマが咀嚼するみたいに、時間をかけて小説を読むことにした。高井にとっては聖書のように読み込んだものだったが、いつもとは時間の流れ方が違った。酒の余韻は心地よく、眠りは甘美だった。
翌朝、いつものようにメールやニュースを見ることができなかったため、高井は砂浜に腰をおろして風車を眺めることにした。巨大な羽が風を切る音は、メジャー・リーガーのスイングのように快活で、風の姿を耳で正確に捉えることができた。そのまま全身に意識を向けると、足の裏は地球の重力を捉えていたし、頭の先は月の張力を捉えていた。なるほど目で見るとはこういうことか、耳で聞くとはこういうことか。便利な道具を手放したことで、彼の感覚器官は正しく機能し始めていた。
その日の午後、高井の車から最新式のカーナビが取り外された。紙の地図を使うべきだと判断したからだ。しかしこの調子だと、来月には車を捨てて馬に乗っているかもしれない。メールを捨てて狼煙をあげているかもしれない。家を焼き払って森で暮らしているのかもしれない。
最初はおもしろおかしく拝見して終わったのですが、その後じわじわと【禁断の果実】のもたらす(悪)影響が目につき始めて、自分も放り投げたくなっています。どうしたら良いでしょうか。