天野貴子は片割れの影を探し求めていた
天野貴子は、片割れになった自分の影を探し求めていた。
プラトンの《饗宴》にはこんな物語が記されている。むかしむかし、それはまだ天界の神々が地に降りて好き勝手やっていた頃、この世界には男と女の他に、男女(おめ)と呼ばれる両性具有の存在がいた。完全な姿を持った男女は、常に満ち足りた気持ちで幸福に暮らしていた。あるとき神は何をとち狂ったのか、大きな刃物を取り出し、男女を真っ二つに切ってしまった。片割れになった男は女を求め、女は男を求めた。そうして人は、あるべき残りの半身(愛)を求めて、右往左往しながら彷徨うようになった。
貴子と次郎の出逢いは、まさに片割れとの再会だった。彼らが対面したとき、先に記憶を取り戻し目を醒ましたのは次郎の方だった。ある種の既視感(デジャヴュ)が、前世の記憶を呼び起こすように、貴子の何気ない仕草は次郎の頭に、遠い過去に引き裂かれた自分の半身なのだと確信させた。彼女は七年付き合った男性と別れたばかりだったし、次郎には他に想っている女性がいた。しかし、目の前に盗まれた自分の魂が現れて、取り返さないなんてことがあるだろうか。たとえ貴子が、白馬の王子様と婚約中の身であろうと、あるいはグローバル・マフィアの箱入り娘であっても、彼女が快諾してくれるまでは、(血を流してでも)身を引かない覚悟だった。
(次郎がそうであったように)、貴子も物心が付いた頃から、自分には何かが欠けていると感じていた。愛情を受けて育ち、容姿も美しく、マリオのように運動神経が良かったが、それでもいつも拠り所のない不安を感じていた。どれだけ花束や賞賛の言葉を贈られても、彼女の心を満たすことはなかった。むしろ褒められるほど、自分の中に無理矢理欠点を見つけ出し、自分を傷つけていた。親が名付けてくれた気貴い名前に引け目さえ感じていた。
しかし次郎と付き合うようになり、片割れを取り戻した貴子は、着実に完全な自分に近づいていた。もうひとりの自分は、何をするにもどこに行くのも一緒だったので、心の底から平穏と安らぎを感じることができた。ほとんど何の障壁もなく籍を入れ、貴子は天野の姓になった。天野貴子。それはまるで高天原(たかまがはら)の貴い男女、天照大神を思わせる新しい自分だった。
この美しい夫婦をみていると心からこう思う。なぜ天界の神々は、エデンの園にわざわざ禁断の果実を植えたり、幸福な男女を刃物で切りつけたり、余計なことばかりするのだろうか。友達無くすぞ、嫌われるぞ。
私の今世のミッションとは「愛」なのですね。探し求めていた片割れを見つけ出し、そこから片割れを愛し、愛を全うするには自分を受け入れ愛することなのだと。常に自分に自信がなかったけれど、次郎さんの愛の言葉で自分を受け入れ、自分を信じることができました。次郎さんがしてくれたように、私も彼を信じ、これからも支えていけたらと思います。