小吹梨絵は数字に興味を持たない
小吹梨絵は、数字に興味を持たないアーティストだった。
天から命を授かったとき、彼女は無計画にも、与えられた才能をまとめて右脳に振り分けてしまった。その時点で左脳のために残されたものは、死にかけのロバが漏らす吐息くらいだったため、能力が感性に全振りした(そして恐ろしく数字に弱い)赤子として誕生した。
梨絵は幼い頃から、楽器や絵筆、粘土といった『表現の道具』を与えられると、秀でた才能を発揮したが、(それに反抗するように)数字には何の関心も示さなかった。教師たちは何度も算数の大切さを説得したが、それは空を飛ぶ野鳥に対して、ウォーキング・レッスンの入会を薦めるようなものだった。
彼女はまた、数字に現れる優劣(得点や評価、成績)に対しても興味を持たなかったため、テストが迫った期末には周囲との温度差を感じざるを得なかった。クラスメイトたちは、死にもぐるいで数字や記号を短期記憶に詰め込んでいたが、梨絵だけは持ち前の愛嬌と愛想を武器に、次々に教師たちを味方につけたため、結局、掛け算と割り算の違いが何なのかわからないまま高校を卒業することになった。
大人になってからも、彼女は気の向くままに、カナダで動物と遊んだり、バンコクで酒を飲んだり、ウクレレを弾いて過ごしていた。梨絵の一貫した世界観には多くの人が魅了されたが、一部の常識的(平均的)な大人の中には、彼女のそんな生き方を『根無し草』だと揶揄し、「そんなのでは、いつか困ったことが起こる」と進言する者もいた。
確かに思い返してみれば、学業を疎かにしたことで失ったものもあった。「にいがたのおじさん」を「新型のおじさん」と書いたこともったし、「宣教師ザビエル」を「家庭教師ザビエル」だと勘違いもしていた。しかし、現実に困ったのはその程度だった。
彼女は今でも『That節』や『第五文型』いう言葉が何を意味するのかは知らないが、英語圏の人々と瞬く間に仲良くなることができる。カメラがどのような仕組みで動くのかは見当も付かないが、レンズの先の人を笑顔にしたり、色彩で感動させることはできる。
彼女を見ていると、私はいつも「義務教育は誰のためにあるのだろう」と重力を失ったような気持ちになってしまう。周りが走っているから走り出したが、何のために走っているのか解らなくなったダチョウのように。
学校で僕らが学ぶもっとも重要なことは、「もっとも重要なことは学校では学べない」という真理である。
村上春樹
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