2023-10-17

ナナシはわたり鳥の生まれ変わりだった

肖像作家のナナシは、わたり鳥が生まれ変わったような人物であった。

あるいは泳ぎ続けなければ絶命してしまう回遊魚のようでもあった。

彼は家を持たず車で暮らし、時稀(ときたま)に町で人と会うことを除いて、ほとんどの時間を森のなかで過ごしていた。

「移動中でなければ森に引きこもり中、森に引きこもり中でなければ移動中」と言い当てられるほど、彼の生活様式は鳥や鹿のそれに酷似しており、三日も続けて町で見かけることは、ほとんど奇跡に近い確率であった。

あるとき古い友人は、ひと月に5,000kmも移動するという彼を心配し「お前もいい歳なんだし、そろそろ地に足をつけてはどうだろう」と定住への説得を試みたが、それは獰猛なライオンに対して「レタスを主食にしてみませんか」と提案するようなものであった。

そんな有様なので、彼はどこかに勤めるという経験をしたこともなく(もちろんそんな人物を雇いたい物好きもいない)、親切な誰かから幾ばくかの施して受けて暮らしているそうだ。奈良や宮島の鹿が観光客からせんべいを与えられるように。

パトロン達の厚意に対して自分が報いるべき仕事は、売上をあげたり何かを造り出すことではなく、寧ろ『空白を生み出す』ことだと彼は考えていた。

かつてクロード・ドビュッシーは、「わたしは日々ただ無(リアン)を制作し続けていた」と口にしたが、ナナシも自らを忙しくするものをひとつ残らずちりとりで集めて捨て、そこで生み出した『予定のない時間』(彼の主要資産だ)を自らのために再投資した。

彼はうす暗さが残る早朝に、山間に浮かぶ雲海を眺めながら白樺の樹液で珈琲を淹れることを好んだ。

夕暮れには、陽が煮え沈む水平線を眺めながらボヘミアン・ピルスナ-を味わい、鵺(ぬえ)が鳴く深い夜には、望遠鏡で星を求めながら樽香の利いたピノ・ノワールを嗜んだ。​​

彼は新しいものよりは太古から永く続く『伝統や古典』を愛したため、(買い替えを前提とした)最新の家電機器に対しては、ほとんど何の関心も示さなかった。

その無関心さは病床に伏せるガンジーに向かって『全米で話題のパンケーキ屋が上陸したこと』を知らせたときのようであった。

自らの手で建てた住まい(車)は中世の海賊船のような造りになっており、電球の代わりにオイルランプを灯し、テレビに替わってレコードや地球儀を回し、スマホやネットは存在さえしなかった。

またあるとき、紙の地図を広げるナナシを見た友人が「知っているかい、今は21世紀なんだぜ」と揶揄(からか)ってみたところ、「知っているかい、薪の割り方を。和歌の詠み方を。湧水の見つけ方を。」と果敢に応戦した。

そんな彼もかつては都会の瀟洒なマンションに住み、流行りの店で紳士淑女とワインを嗜み、クルーズ船やファーストクラスで各国を旅するような人物であった。

変革に至った『何か』が彼に身に降りかかったことは疑いようがないことだろう。

ジョン・スミスがポカホンタスと出逢ったように。あるいは4枚のトランプが革命を起こしてしまったように。

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