2023-12-10

川西星輝は正当に評価されない『呪い』を受けていた

川西星輝は、正当な評価を受けられない『呪い』を受けた青年だった。

彼の人物像は、万華鏡を覗いた世界のように左右対称に見事に整っていた。容姿は彫刻のように美しく、感性は鋭く、ジェームズ・ボンドのように機転が利いた。勉学も仕事も恋愛も、ピッチャーフライを捕るように優雅にこなした。彼が持っていないのは、負債と犯罪歴くらいだった。

そんな調子なので、周りの男たち(私を含めた)は、彼の活躍に対して、もはや嫉妬する気も起こらなかったが、あえて褒め讃えようとも思わなかった。彼が事業で特別な成績をおさめても、どこかの川で溺れたお婆さんを助けても、それらの知らせは「北海道に初雪が降りました」とか「ゴリラは力強く胸を叩きました」といったニュースと同じように見なされた。

もし星輝が、自らの命と引き換えに、地球に向かって飛んでくる巨大隕石を止めたとしても、大した賞賛は得られないだろう。それどころか「自分も星輝と同じ顔で生まれたなら、そのくらいのことは当然します。」という意見が散見されるはずだ。まったく不幸な男である。

唯一の救いは、星輝にとって『社会からの評価』はデザート程度のものだったことだ。あればあるに越したことはないが、用意がなくても全く気にならなかった。メイン・ディッシュは、内からの声に従うことであり、それが満たせれば充分だった。しかしそれでも、非行少年が立派になれたという類の美談を聞かせれると、さすがに幾分かの不公平さを感じた。

星輝は幼い頃から、実直な鍛冶職人のように、やるべき仕事を兀々淡々(こつこつたんたん)と積み重ねていた。意義を見出せるものであれば、習得のために何もかも捧げることもできた。問題があるとすれば、泥臭い努力は全て水面下で行われたため、「彼は生まれながら何でもできる」という清々しいほどの勘違いを受けていたことだろう。

しかし私が思うに、人は差分にのみ反応する生き物なのだから、出木杉君とのび太とでは、100点の重みが違うのは当然なのだ。星輝のような(誤解を恐れず率直に言うと)『欠点のない人物』への風当たりはとても厳しくなる。善行は当たり前とされ、欠点ばかりに目を向けられてしまう。

たとえば、マハトマ・ガンディーが、マクドナルドのドライブスルーに嬉々として並んでいたらどうだろう。それが純粋無垢な行為だったとしても、彼の哲学的な言葉は三段階ほど値を落とすのではないだろうか。要するに観客は、自分より劣るものを求めているのだ。これは星輝から学べる重要なテーゼである。

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